241214-こんな気持ちを抱えるつもりじゃなかったのに、


と思う事が、歳をとるごとに増えている気がする。他人に対して嫌悪感だとか、何か許せない気持ちだとか、簡単にまとめてしまえば、気づかないうちに妬みだとか僻みを抱えている。

問題はこれが自分の意思ではなくて、気づいたら湧いている感情だと言う事。
そもそも感情が意思とは関係なく湧くものだと考えるのであれば当たり前なのかもしれないが、感情は能動的に動かすものだと考えている自分からすると違和感があるし、負の感情である妬みや僻みみたいなものを認めたくない。
なんでこんな感情を対象に抱いているのか、考えると分からなくなるので余計に意味がわからない。

そう思っていたが、このブログを一旦最後まで書いて気づいたことがある。
相手が自己を発散する、つまり自分の好きや肯定、快を言語、非言語関係なく伝えてくる時にこの感情を抱くことが多い。

私はある時から自分の「好き」的な感情をなんとなく隠しながら生きている気がする。
「これが良いと思うんだ」、みたいな気持ちもあるにはあるのだが、「他人に肯定されることが良しとされる世界観」が世界に敷かれていて、その中で生きていると考えている自分にとって、自分の好きなものや興味があるものの話をしてもどうも興味を持ってもらったり、深追いをしてもらえず、相手の話を盛り上げる事に興じている事に、めちゃくちゃな違和感と諦めを感じている。この世界観設定が間違っている可能性は大いにあるので、疑っていく必要があるとも考えている。

ただ最近、通っている演習で学んだこともある。まとめると「相手が分かるレベルで話をする事が重要」という事だ。役所と友達では話す内容が違う。これはめちゃくちゃ当たり前の事だし、私も世界に対して分からない事がかなりたくさんあるので、そういう時はレベルを合わせてもらうしかない。

このレベル合わせと、相手に対する抱きたくない感情には、自分の中で相関性がある。

つまり、私は誰に対しても自分のことを理解して欲しいという傲慢な態度があるという事だ。
さらに、これだけ話が通じるから理解してくれるだろうと見積もってしまう甘さがある。自分の話したい事を話せる人の範囲がどのようなことに興味がある、どんな人なのかを全く見定めていないのだ。

だから目の前で「自己を発散される事」に抱きたくない感情を抱いてしまうのだと思う。

ただ、これからはそんな感情を抱く必要がない。
なぜなら自分が相手を理解するフェーズに立てていないからだ。ただ、その上でなにが良いのかを理解したいから踏み込むか、そこで興味すら向かないかによって、大きく異なるとは思う。
その上で私は常に前者でありたい。より様々な世界を理解できるからだ。

そもそも、抱きたくない感情を抱き続けるなら、丁度よい距離感で接すれば良いだけではあるが。

という個人的な悩みを今日は投下する事にする。


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