• 241216-あらゆる一般化に飲み込まれるな

    ネット、特にSNSには人間1人が1日で処理できる限界を超えているであろう数の意見が24時間転がっている。信用できないような意見が大半だと勝手に思っているが、なぜかそういう意見を自分の中で反芻してしまうことがある。
    例えば、他人に身なりを褒められても嬉しいものではなく、自分の好きな人に褒められるから嬉しいのだとか、なんとか。本当にそうなんだろうか。

    このような意見は、すこし考えてみれば人それぞれ違うのではないかと思う。
    不特定多数に褒められて嬉しい人もいれば、特定の人に褒められることだけが嬉しい人もいるはずだ。なのだが、論調がキツかったり、頭が良さそうな書かれ方をされていると、どうも自分は引っ張られてしまう傾向にある。

    SNSの構造的に、投稿を閲覧者が読み込むようにはできていないと考える。次から次へと新しい投稿を見せるようにできているはずだ。
    また私がSNSを使う時、脳はインスタントに新しい情報を手に入れたいと思っているので、投稿の読み込めなさが加速してしまう。さらにそもそも、情報量が多すぎる。
    つまり、SNS上の意見に振り回されて当然だ。それが嫌ならば忘却するか、アプリを消すか、SNSをやめるか、常に様々な意見に対して真剣に考えるか、ふーん、で済ませるしかないのかもしれない。

    SNSを使わない生活は考えられない。でも時々現れる、「一般化っぽいやーつ」から逃れないと自分が辛くなってしまう。私にはさまざまなスキルが足りていないが、上記の「ふーんスキル」のレベルが0なのだ。

    可能であれば「ふーん」ができるようになりたい。
    あとは文章を構造的に理解するスキルとか。他人の文章を読んだだけだと理解できず、自分の言葉として咀嚼する必要があるのだ。この能力はどうしたらつくのだろうか。
    誰か教えて欲しい。

    12月 16, 2024
  • 241215-涙をこらえる事について

    私はよく泣いてしまう方だと思う。嬉しい時も悲しい時も、簡単に涙を流してしまう。
    さらに、最近はこれまで以上に涙を堪えられない事が増えてきた。だが、人前で泣きたくはない。正直恥ずかしいし、涙の重みがなさすぎて、あいつは簡単に泣くやつだ、などと思われたくないからだ。いつだってその時の感情は嘘ではないのだが、それを信じてもらえなくなると思うと、怖い。

    今日は久々に涙を堪えた。光婉というアートスペースで行っている鑑賞/Kanshoという音楽リスニングイベントに私は関わっているのだが、今日は磯田健一郎さんをゲストに、彼の最新作、「マジエルのまどろみ」をリスニングした。

    磯田さんの解説込みで聴く作品は本当に最高だった。3回行うイベントのうち、3回全てで音楽リスニング用の部屋に入りアルバムを通しで聴いていたのだが、聴けば聴くほどにこのアルバムの曲が非常に高い強度を持った作品群である事がわかる。聴かずとも鳴っている音としても美しければ、旋律ひとつひとつの美しさをじっくり味わう事もできる。構成や展開もシンプルながら、それに飽きる事はない。凄まじい作品だと思った。

    私が涙を堪えたのは、磯田さんから頂いた資料を見たのちに質問した事への、磯田さんからの回答だった。具体的には、磯田さんはこの曲の初回時のライナーノートや、発掘された楽譜の一部などを資料として配ってくださった。
    その中で私は、楽譜に記載されていた曲の調と出だしの和音の在り方に、あるフランスの作曲家による作品を思い出した。これはあの作曲家のあの曲と同じ考え方なのでしょうか?これを質問できるという安心感に、私は涙しそうだったのだ。

    しかし本人の前で急に泣いてしまうどころか、お客さんも入っていたので必死に堪えた。突然スタッフが泣いたらびっくりするだろうと思っての事だった。

    感情を抑えることは、あまり良いことではないと思っている。
    何故なら、前の記事でも書いたが、感情とは能動的に震わせていくものだと考えているためだ。振るわせた感情を自分で無理やり押さえつけるなんてまるでアクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだと思う。エネルギーが勿体無い。

    でも時には涙を堪える事で、スムーズに世界が動く事もあるような気がする。どうなんだろう。
    私は涙を流す事が別に恥ずかしいことではない世界を望んでいるが、この記事を読んでいる人はどう思うのだろうか。

    なお、以下のリンクからマジエルのまどろみを購入できる。是非聴いてみてほしい。
    https://kankyorecords.com/?pid=183570751

    12月 16, 2024
  • 241214-こんな気持ちを抱えるつもりじゃなかったのに、

    と思う事が、歳をとるごとに増えている気がする。他人に対して嫌悪感だとか、何か許せない気持ちだとか、簡単にまとめてしまえば、気づかないうちに妬みだとか僻みを抱えている。

    問題はこれが自分の意思ではなくて、気づいたら湧いている感情だと言う事。
    そもそも感情が意思とは関係なく湧くものだと考えるのであれば当たり前なのかもしれないが、感情は能動的に動かすものだと考えている自分からすると違和感があるし、負の感情である妬みや僻みみたいなものを認めたくない。
    なんでこんな感情を対象に抱いているのか、考えると分からなくなるので余計に意味がわからない。

    そう思っていたが、このブログを一旦最後まで書いて気づいたことがある。
    相手が自己を発散する、つまり自分の好きや肯定、快を言語、非言語関係なく伝えてくる時にこの感情を抱くことが多い。

    私はある時から自分の「好き」的な感情をなんとなく隠しながら生きている気がする。
    「これが良いと思うんだ」、みたいな気持ちもあるにはあるのだが、「他人に肯定されることが良しとされる世界観」が世界に敷かれていて、その中で生きていると考えている自分にとって、自分の好きなものや興味があるものの話をしてもどうも興味を持ってもらったり、深追いをしてもらえず、相手の話を盛り上げる事に興じている事に、めちゃくちゃな違和感と諦めを感じている。この世界観設定が間違っている可能性は大いにあるので、疑っていく必要があるとも考えている。

    ただ最近、通っている演習で学んだこともある。まとめると「相手が分かるレベルで話をする事が重要」という事だ。役所と友達では話す内容が違う。これはめちゃくちゃ当たり前の事だし、私も世界に対して分からない事がかなりたくさんあるので、そういう時はレベルを合わせてもらうしかない。

    このレベル合わせと、相手に対する抱きたくない感情には、自分の中で相関性がある。

    つまり、私は誰に対しても自分のことを理解して欲しいという傲慢な態度があるという事だ。
    さらに、これだけ話が通じるから理解してくれるだろうと見積もってしまう甘さがある。自分の話したい事を話せる人の範囲がどのようなことに興味がある、どんな人なのかを全く見定めていないのだ。

    だから目の前で「自己を発散される事」に抱きたくない感情を抱いてしまうのだと思う。

    ただ、これからはそんな感情を抱く必要がない。
    なぜなら自分が相手を理解するフェーズに立てていないからだ。ただ、その上でなにが良いのかを理解したいから踏み込むか、そこで興味すら向かないかによって、大きく異なるとは思う。
    その上で私は常に前者でありたい。より様々な世界を理解できるからだ。

    そもそも、抱きたくない感情を抱き続けるなら、丁度よい距離感で接すれば良いだけではあるが。

    という個人的な悩みを今日は投下する事にする。

    12月 14, 2024
  • 241212-ブログを書きたい

    今、私は自分が仕事で関わっている場所でブログを書いている、がうまく書けない。髪色を変えた事を書こうとしたのだが、あまり筆が乗らず、書いたものを全て消してしまった。

    どれだけの人が私と同じ傾向にあるかわからないが、自分が1人で行う事に対してその場でやっていて良いのか分からないと、うまくいかないらしい。人と関わるべきか、このままブログを書いていてよいのか、よく分からない。

    だが、この感情をそのままブログに記しておくのは悪い事ではないと思う。私はよくこういう事で迷ったり、集中出来なくなるからだ。

    ブログを書きたい時もあれば、人と関わりたい時もあるという自分の気持ちのどちらもを引っ込める事をせずに、時々空気を読みながら、うまいこと生きていきたいと思う。

    12月 12, 2024
  • 241211-美より奇

    業務委託の仕事の休暇2日目。起床し、ご飯を食べ音楽制作をし、その後近所の山を散歩していた。近所の山は家から歩いて帰ってくるまでで40分ほどで、散歩ルートとしては丁度良い。今日の予定では髪を切るために家を出る時間まで制作している予定だったが、頭の中のわがままシミズは散歩に行きたくなってしまったので、急遽山に向かった。

    山を散歩すると、思ってもないような考え事が引き起こされる事が多い。今日は自分のセクシャリティと、それに伴う美意識を出発点に、「美より奇」という考えを導き出した。

    私の性自認は男性だが、周期的に男性と違う性を持っている、という認識になる。恋愛対象は、性的な境界線が存在しないと思っている。その上で、自分が美的にどうなりたいのかというと、いわゆるイケメンになりたいと思った事が一度もなく、どちらかというと「かわいい」方がいいという感情がある。

    がしかし、これより上位の美意識がある。「奇」だ。

    「奇」について、意味を簡単に確認すると、「1 普通とは違っている。珍しい。2 普通の知識では割り切れない。不思議だ。あやしい。3 普通の程度をはるかに超えてすぐれている。4 予想から外れた。思いがけない。5 二で割り切れない数。はした。6 (「畸 (き) 」の代用字)形が正常でない。7 (「綺 (き) 」の代用字)飾り立てて美しい。(goo辞書より / https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/%E5%A5%87/」

    この意味の中で、私が奇として考えているのは主に「4」である。これは見た目に限らず、自分の制作しているものから、自分を取り巻く環境の認識、自分の好きになるものも含まれる。もちろん全てがこうなるとは思わないが、ひとまず制作される音楽はこのような美意識(奇意識?)を感じられるものになっていって欲しい。

    自分の見た目における「奇」について話せば、奇抜な見た目をすればいいというわけではない。思いがけない、予想から外れた要素がある事で、頭に疑問が残ってしまう状態。それが私の「奇」におけるゴールだ。

    私にとって、「かっこいい」とか「かわいい」は美だ。「奇」はあるところでは、「かっこいい」とか「かわいい」とかを内包している。だがそれは自分にとってはそれほど重要ではなく、いかに理解が追いつかず、数日、数年、もしくは人生の謎になるかが重要なのだ。

    どこまで「奇」を追求できるのか非常に楽しみだ。

    12月 11, 2024
  • 241210-休み

    今日は業務委託仕事の休暇をとっていた。

    アトリエで起床し付近の銭湯へ。身を清めてから作品制作を行った後にアトリエから自宅へ帰り、車検に出してた車を受け取って今だ。

    ふと今、休みって何だろう、という疑問が湧いてきた。業務委託の仕事をしている日でも、銭湯にも行く時はあるし、制作もする。休みでもそうでなくとも、自分の生活はあんまり変わらない。そもそも休みとはどんな状態なのか。制作は毎日したいし、風呂も毎日入りたいから休みの日にこれらの行動をしないというわけではない。しかし何かしら変化が欲しい。

    どこかでダラダラと過ごすのも、休みとは言いがたい時が多い。最初はいいのだが、夜になるにつれて非常に虚しくなるのだ。あの虚しさはあんまり経験したくないし、虚しさでたまり、いい休みとは言えなくなってしまう。この前は虚しさを振り切る刺激が欲しくて数時間クラブに行ったりした。がそのような事をしても取り返せない事は承知している。

    また、休みが友達と遊ぶ時間というわけでもない。自分の場合、あんまり遊ぶ時間が長すぎても疲弊してしまう事があるので、普段の生活内での友人との外出時間はMax2〜3時間くらいで良い気がしている。寂しがり屋ではあるが長すぎても良くない。人といる時間が嫌なのではなく、なんか生理的なものな気がしている。

    自分の中で休みというのは、ダラダラしたり、惰眠をカマしたり、友達と全力で遊んだりするものというイメージがあったが、どうやら違うっぽい。どちらかというと、このブログを書いている今は休んでいる感じがするし、適当にパスタを作ったりする事がなんか休みっぽい感じがする。でもこれだけでもダメで、近所の山を散歩したりもしたい。

    あくまで仮説だけど私にとっての休みは、わがままな脳のやりたい事を思い立ったタイミングで叶えてあげる日なのかもしれない。

    実は休暇を明日も取っているので、まずは何か意識的に行動を起こしてみようと思っている。今日はもう家にいて非常に眠い上に、後は寝るだけのため、明日はおそらく早起きができる。明日は長い1日になりそうだ。
    美容院に行きたいだとか何とか、色々やりたい事のアイデアはある。
    何をするか選ばなくてはいけないのは少し辛いが、自分が休みだなぁと思う日の作り方を発見していきたい。

    12月 10, 2024
  • 241206-あきらめたり手放したりすること

    さっき、Instagramで好きなアーティストであるMr.の投稿を見ていた。Mr.の作品は自分の小学生時代の趣味と大きく重なる美意識の作風で、いつかは彼の作品が欲しいと思っている。

    数年前に村上隆の本でMr.についての記述を読んだのだが、アーティストになる為に相当苦労していたらしい。しかし、Mr.のスケッチか何かを見た村上隆のアドバイスが、今のMr.の作品の方向性を切り拓いたとかなんとか。

    Mr.のInstagramを見ていると、アーティストとしてやっていく為には生半可な覚悟では無理だという事がひしひしと伝わってくる。制作中の飯の投稿とか、クオリティを徹底的に詰める姿とか、孤独と向き合う事とか、、、。そんなリアルをみていると、私もここまで全てを振り切ってしまいたいと思う。でも出来ていない。きっとまだ怖いのだと思う。

    明らかに大人と言える年齢になってから、人に良く見られたいという思いが強くなってきた。嫌われたくないし、常にアーティストとしてみられたいし。でも無理はしたくないし、、、等等。

    そんなクソ喰らえな言い訳をするくらいだったら手を動かせという事だ。安心して手を動かせばいいし、金銭的、時間的、気持ち的などれかで断りたい予定は断って、手を動かせばいい。もっと自分の世界を生きていいという実感を得るために手を動かせばいいのだ。

    私が思うに、私が好きなアーティストたちは、確実に手を動かし続けている。それを続けるための環境と理由を作り、金を稼いでいる。そして多分、手放したことや諦めたことがある。

    私もそうなりたいし、自分が手放したい事や辞めたいこと、諦めたい事は今でもたくさんある。言い訳をせずに手放したり、辞めたり、諦める勇気を持ちたい。

    12月 6, 2024
  • 241205-習慣の力を知る

    最近、アーツカウンシル東京が主催の「自分のアートプロジェクトをつくる」という演習に参加している。全8回の演習となっており、毎回目から鱗な内容となっている。

    同じ志を持った人々とディスカッションなどを通じて互いを磨いていくというのは久々な経験で、非常に楽しい。

    特に自分の行動パターンに刺激を受けた日があって、それは森司さんによるワークがあった回だ。

    その回での具体的なワークは割愛するが、アートプロジェクトに欠かせないのはどうやら「新しい技術、知識を獲得するための習慣」のようだった。

    その回が終わって少し経ったある日、私は「日本民謡大観」という、NHKが出版していた民謡集の唄のメロディを毎日最大10曲演奏データ化する習慣を始めた。この習慣の恩恵は凄まじい。蓄積した演奏データをchatGPT製のプログラムに通して研究用のデータを作成したり、じわじわと民謡の音の動きを体感的に理解したりしていて、これまでにないくらい研究が進んでいる。

    さらに架空の民謡のメロディをを1日1曲作るという習慣も同時にスタートした。この作業のおかげで、新しい作品を作るための作曲ソフトの使い方を思いついたりした。

    だがある日、私はこの習慣をやめてしまった。一時的に時間を作れなくなってしまったからだ。ここから2週間くらい、私は何もしなかった。この話を演習の人と話していたのが森さんに聞こえたのだろう。演習終わりの懇親会で、森さんに「言い訳なんてしないでやれば良いじゃないか。君はそうすればスッといくと思うのに。」的な事を言われた。最初は勘違いしていて別の事だと思っていたのだが、1人になった時に多分この事だろうと気づいたのだ。

    言い訳をしないで、時間を作って、毎日少しでもやる。そうすると着実になんかしらになる。先日の演習のゲストだった矢野淳さんも、手を動かせばなんかになる、的なことを繰り返していた。

    最近は駄作を作るのが怖くなっていたし、今の状況だと駄作しか生まれないような知識と行動力なのだ。だが、これに耐える他に自分が楽しいと思える作品制作は多分ない。

    継続する為にはハードルを下げることも大事だと思っている。1曲データにすればとりあえず合格だったり、疲れている時は短い曲だけやるとか、そんな感じで続けている。日本民謡大観には何千曲も掲載されているで、継続が唯一の真っ向から立ち向かう方法なのだ。

    私が言えた事ではないが、スランプ気味な時こそ制作における習慣を作ってみて欲しい。きっと前に進むことが出来るはずだ。

    12月 6, 2024
  • 240818-自己を制御する

    久々にブログを更新している。iPadで数ヶ月使ってなかったSafariを開いたら、ブログ管理のログイン画面が出現したためだ。

    約1-2週間前、私は体調を崩した。一人暮らしを始めてから初めての事だったのだが、想像以上にキツかった。3日くらいで動けるようになった。

    その身体で病院に行ったのだが、行った先は心療内科。腹痛で精神的にかなりきてしまったからだ。これまで2回、別の症状で通院したので、今回が3回目だ。症状を小さいノートにメモしたら、2ページ半くらい埋まった。

    医者にノートを見せたところ、ASDとADHDの傾向があるんじゃないかと言われた。過去に友人からそんなことを言われたりしたのだが、イジりだと思っていたが、最近は自分でもそうなんじゃないかとも思っていた。

    自分は「普通の人として扱われたい(というか、扱われなくてはいけない)」欲求がどこかにあったから、いつも自分の行動や考え方がおかしくないか、観察していた。最近、自分がおかしい行動や考え方をしたんじゃないかと疑うことが増えていたため、気を病んでいたのだ。まぁこの観察自体、めちゃくちゃ主観的ではあるのだが。だから医者に「ASDとADHD傾向があるんじゃないか」と言われた時、とても楽になったのだ。

    普通をやりこなすことが、向いてないのかもしれない。おかしいと言われるポイントが、他の人よりも多いのかもしれない。さらに、自分以外の人に対しておかしいと思うこともズレているかもしれない。ただ、もうどうしようもないのだ。吹っ切れるしかない。本当にヤバいことだけは知ってる必要があるとは思うが。

    今は薬と診療のダブルパンチで、びっくりするくらい元気だ。これまで自分を疑いすぎて、日本の音楽関連の事がほとんどできていなかった。今はとても意欲的だ。そして、めちゃくちゃタバコが吸いたい。元気すぎて脳が追いついてないから、少し落ち着きたいのだと思う。ずっと微妙にソワソワしてる感覚がある。

    その上で、自己の制御とは何なんだろうと頭に浮かんだ。薬と診療だけで、自分と世界に行う認識が変わってしまう。特に薬による変化はかなり感じる。タバコも吸いたくなる。制御の対象がこれまでと物質的にはほとんど一緒のはずなのに、違うものになっている気がする。でも知っている状態でもある。過去の自分がこんな感じのテンションだったり、集中力だった事を覚えている。

    とりあえず当面の自己制御は、タバコを吸いたいけど、吸うと色々と弊害も出てくるから辞めておくとか(もちろん、どうしても吸いたければ吸えばいいとは思う)、お酒は少し飲むだけでも翌日に元気でいられないし、処方薬との相性が悪いから飲まないとか、そういう事くらいを制御する事にして、他のことは、その時の自分が車くらい制御が効くのか、羊くらい気ままなのかに合わせてもいんじゃないかと思う事にする。

    8月 18, 2024
  • 240224~0227-AMCJ出演で学んだこと

    今日はお茶の水にあるリットーベースというスペースにて、AMCJ(Ableton and Max Community Japan)に出演した。レクチャーとライブを行った。私は教える側の人間としてその場にいたが、レクチャーをする事で教わることも多かった。箇条書きにする。

    • 余裕を持った準備ができるようになるのはとても良いことだが、それは場数を踏まないと多分無理。
    • レクチャー資料まとめるの難しい。大学の先生って本当にすごい。
    • 自分が思っている以上に、初めての事を理解するは相当難しい。どういう情報が初めての人にとって理解しやすいのかを発見する必要がある。
    • 荷物が少ないに越したことはない。
    • ライブで三味線を使うことは私の活動では重要だが、無理に使う必要はないのかもしれない。
    • ライブ用音源は前日の夜から作り始めて、当日の朝に完成したが、作っていて未知だと感じる領域が多いので、日々いろんなアプローチで短くてもいいから色々試すことは必要だと感じた。もしライブ前日に浮かばなかったら終わってた。友達のおかげでもある。
    • 楽器やリアル資料を持っていくと現場の人にリアルを体験してもらえる。
    • このような機会があることで自分の今の立ち位置を明確にすることができる。どのくらいわかってないか、とか。わかってないことが多い

    ひとまずこんなもんかもしれない。

    来場者の方、配信で見てくださった方、ありがとうございました。配信は引き続き3/10まで見ることができますので、この機会にぜひどうぞ!

    リンク→ https://amcj-47.peatix.com/

    2月 27, 2024
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